駆け出しライターのひとりごと

誰も耳を傾けてくれない些細なことから社会批評まで。

渋谷の雑踏にて

 

JR渋谷駅、ハチ公口の改札を抜けると人で溢れかえっていた。

どこを見渡しても、男女のグループが談笑している。一人でスマホの画面に夢中になっている人あもいたが、すぐに相手が現れた。

みんな待ち合わせをしている。そういう私も友人を待っている。

 

他人が待ち合わせをしている光景をみていると、あの子は何を目的として会っているんだろう、関係性はどうなのかと想像する。

趣味の悪いことは重々承知の上だが、気になってしまうのだから仕方がない。

 

白いビックTシャツに黒いスキニーを履いた男の子は、赤リップがキツイ女の子と話をしているけれど、彼はその隣でスマホをいじっている女の子に何度か目線が落ちる。きっと彼は隣の女の子に好意を抱いている!なんてことを勝手に思う。

 

これはまだマシな方。

 

最近はこんなことを思うことが少なくなった。

精神状態が改善されたのか、もしくはすでに何かを諦めたせいかは分からないが、とにかく減った。

 

何が減ったか。駅や道ばたで並んで歩く男女にいらだちを覚える回数が減った。

逆にいうとある時期は、男女が歩いているだけで自分の奥底にあるマグマような感情がそのたびに湧き出てきた。要するに彼女が欲しかった。

 

ある友人に話すと、「多分、みんなニセモノだよ」と言った。

 

冷静に考えれば、彼氏彼女の関係ではなく、ただ友人と歩いているだけの人が多いかもしれない。

あれ、けど私にはそんな可愛い友人すらいないなあという思いを押しやって、自分自身を納得させた。

 

どんなに私がハチ公前にいる男女の関係性を探ろうとしてみても、本当のことは本人たちにしかわからない。良くも悪くも人は主観で生きている。

客観的に見ようとしても、形だけのもので本当の意味で客観にはなれない。だとしたら、自分の見える世界を信じたい、時には都合良く。

 

ダニエル・K・イノウエ国際空港

2017/5/29

 

ホノルル国際空港が「ダニエル・K・イノウエ国際空港」と名称を変更した。

ニュースとなっていたのは、ひと月前のことであったが知り合いからふと聞かされ、今日初めて知ることになった。

おそらくハワイで活躍した日系人の名誉を称え、命名されたのだろうと容易に予想がついたが、せっかくの機会なので少し調べてみることにした。

 

ダニエル・イノウエ

ハワイ大学在学中にアメリカが第二次世界大戦に参戦した為、ハワイでの医療支援活動に志願した。その後アメリカ人としての忠誠心を示すために、アメリカ陸軍の日系人部隊である第442連隊戦闘団に配属された。ドイツ国防軍との戦いにて右腕を負傷し切断。1年8ヶ月に亘って陸軍病院に入院したものの、多くの部隊員とともに数々の勲章を授与され帰国した。

 

彼に授与された名誉勲章にはこう書かれていた。

“イノウエ少尉は自動火器と小銃から浴びせられる射撃をかいくぐって巧みに自身の小隊を指揮し、素早い包囲攻撃によって大砲と迫撃砲の陣地を占領し、部下達を敵陣から40ヤード以内の場所にまで導いた。

自らの身の安全を完全に度外視し、足場の悪い斜面を最も近くにある機関銃から5ヤード以内の位置まで這い上がり、2個の手榴弾を投擲して銃座を破壊した。敵が反撃を仕掛けてくる前に、彼は立ち上がって第2の機関銃座を無力化した。狙撃手の弾丸によって負傷するも、彼は手榴弾の炸裂によって右腕を失うまで、至近距離で他の敵陣地と交戦し続けた。激しい痛みにも関わらず彼は後退を拒否して、敵の抵抗が破れ、部下達が再び防御体勢に入るまで小隊を指揮し続けた。

攻撃の結果、敵兵25名が死亡し、8名が捕虜となった。イノウエ少尉の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍の最も崇高な伝統に沿うものであり、また、彼自身やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな栄誉をもたらすものであった”

 

ウィキペディアより一部抜粋

 

戦争についての知識も教養もない私が初めに感じたのは、無謀とされる中で、敵地に乗り込み、敵兵を滅することが、栄誉であり名声となるのかとふと思ってしまった。アメリカ軍にとっては自国の為に命を顧みず、前線で活躍した兵士は国の誇りであるのには違いない。ただイノウエ氏率いる小隊に命を奪われた人が少なからず存在するのだ。戦争とはそういうものなのだという一言で片づけてしまうこともできるが、私にはどうしても見過ごせなかった。

栄誉として称えられた一面だけでなく、光が当てられていない部分が必ず存在する。「ダニエル・K・イノウエ国際空港」と名付けようとした人たちは、その一面も考慮しているのだろうか。それとも私がただ考えすぎているだけなのか。

 

一連の戦闘で亡くなった人やその遺族を考えるとどうしても喜ばしいことだと感じることは私には出来なかった。